ああそうか。
気がついて空を見上げた。
日が長くなったんだ。
薄い水色。もうとうに夕方の認識だったが空は明るい。真昼ほどというのは無理があっても、公園で小学生が遊び回っていても違和感がないほどではある。
冬の出口はもう間近なのに、
五十嵐 尚輝はようやくそのことに気がついたのだ。
学校からアパートへの帰路、尚輝は背を丸め肩掛けカバンに白衣という姿で歩いている。
ダメだなぁ……僕って。
ため息をついた。
いくらなんでも気がつかなさすぎだった。
尚輝の高校時代のあだ名は『世捨て人』、中学時代は『じーさん(爺さん)』だった。配慮のない時代だったから、教師にすらそう呼ばれたものだ。もうちょっと好意的な表現で『仙人』とか『象牙の塔』というのもあったが同じことだろう。ようするに世間の流れに鈍感すぎる、好きなこと――尚輝の場合は科学(化学に限らず)――に没頭してまわりが見えていないという意味の揶揄(やゆ)だ。
あだ名にこめられたうっすらした悪意を尚輝は意識しなかった。一切感じないとまでいえば嘘になるが、『そんなもんかな』と思う以上のことはなかった。空気を読むやら読まないやらというのには興味がなかったし、世渡り云々のスキルが自分にないことも存分に学習していた。当時はNYAINのようなSNSはなかったので、帰宅後まで追いかけてくる同調圧力がなかったおかげも大きい。
大学院に進むとずいぶんと楽になった。研究室には自分と似たタイプがごろごろいたからだ。
寝子高教師になってからも同じだ。強烈なキャラクターばかりのこの学校で、尚輝の『世捨て人』っぷりはひとつの個性として認められ尊重されてきた。かかわってくる人はいても尚輝を変えようという人はない。おかげで尚輝は、安心して尚輝のままでいることができた。
でも環境に甘えすぎたかな、と思うこともある。季節の変化を失念して、真夏にマフラーを巻いて出かけるくらいならいい。
ともかさんには悪いことをしてしまった――。
悔やまれてならない。
五十嵐 ともかは尚輝の姪だ。二番目の姉の一人娘でもうじき小学二年生になる。
ともかの両親は現在離婚調停中だった。不仲はずっと前からで、調停にしたってすでに、一年近くつづいているという。なのにそのことに尚輝はまったく気がついていなかった。昨夜に上の姉と電話で話すことがあり「知らなかったの!?」とあきれられたほどである。
僕は全然気がつかなくて、ともかさんに配慮のない発言をたくさんしてしまった。
何度か寝子島に遊びに来た姪に、尚輝は両親のことを平然とたずねた。夫婦関係が円満であることを前提とした質問だ。そんなことになっているとはつゆ知らず、と弁明したいところだが、三十代なかばの大人としては、無神経のそしりをまぬがれぬほどずけずけ、家庭について訊いたものだ。
――ともかさんは賢くて優しい子です。バカな叔父が何も知らないことをわかったうえで、嘘はつかず決定的な真実はうまく回避してこたえてくれたんですから。
嫌な顔一つせずすらすらと答えてくれたともかのほうが、自分よりよっぽど大人だと尚輝は思う。
恥ずかしい。
小さな姪に気をつかわせてしまったことが僕は恥ずかしい。
穴があったら入りたい気持ちだ。今日は一日、率直にいって尚輝はくよくよしてすごした。新年度についての職員会議の内容は微塵も頭に残らず、趣味の実験もまるで手につかなかった。
「鈍感も度が過ぎると悪徳ね」昨日の電話で、一番上の姉は尚輝をなじった。「そうやってあんたは、知らず知らずのうちに誰かを傷つけているんだから!」
返す言葉もない。
これからは、もう少しまわりに注意を払うべきなのかな。
けれどもまだ注意を払っているとはいえないようだ。
「先生、こんにちは」
声をかけられてようやく気がついて、「ああ、はい、こんにちは」と上の空で尚輝は返事した。
誰だっけ。
僕を先生と呼ぶからには寝子高の生徒……でしょうね。
とても印象的なヘアスタイルをした少女だった。タテ巻ロールというのだろう。漫画みたいな髪型である。髪色だってプラチナに近いブロンドだ。たいていの人ならこんな髪型をした少女を見たら忘れないはずだが、あいにくと尚輝は『たいていの人』の範疇に入らない。
でも彼女は尚輝を認識しているようで、ぺこりと頭を下げて尚輝とすれちがった。学年カラーからすると一年生のようだ。
いけない。しっかりしなきゃ。
そう思っているにもかかわらず尚輝の意識は周囲、そればかりか間近も間近、自身の頭のうえに発生している事態すら感知していないのだ。
尚輝の頭から小鳥が一羽、ひょっこり顔を出していた。ウグイス色だがウグイスではなくカケスにも似ている。
小鳥はチチチチとか細い声で鳴いた。訴えているのだ。
〈風が来るよ〉
と。
〈怖い風が〉
だが尚輝は鳥の訴えを聞き取ることができず、どこかで鳥が鳴いていると思うのがせいぜいだった。
数分とたたずして鳥は急に首を引っこめた。
つむじ風が吹いたのだ。あまりの勢いに、思わず尚輝は首をすくめた。
「えっ!?」
そして、背後にとどろいた巨大な音に肝を冷やす。
外壁改修中のビル、その作業現場。
鉄パイプで組んだ足場が崩落していた。霞のように舞う土ぼこりに埋もれ、ひとりの少女が這いつくばっている。
「あ……え……」
何が起ったのか彼女――
川上 紗櫻都(かわかみ・しゃるろっと)には理解できない。右太ももから下にひどい圧迫を感じている。痛い。しかし痛みより息苦しさのほうが勝った。背中にも腕にも鉄パイプが倒れかかっていた。
何か事故に巻きこまれたと紗櫻都は考える。
それにしても右膝の圧迫たるやひどい。首をめぐらそうとして、砂利とアスファルトの混じったものにあごがこすれた。
「……!」
紗櫻都は理解した。右脚の上に、巨大な鉄骨がのしかかっているのだ。
理解すると同時に激しい痛みが紗櫻都を襲った。汗がふきだし息が詰まる。意識が遠のきそうになる。しかし紗櫻都は歯を食いしばった。
このまま気絶したらもう目覚めることはないかもしれない、そう直感したのだ。
死んだら私、mamanに会えなくなる。
想花さんにも――。
月原 想花の姿を必死で思い出す。すがりつくように想花のことを考える。彼女の姿、話し方、笑い方、さまざまな思い出を。
「誰か助け……」
「大丈夫?」
はっきりと声が聞こえた。小さな手が紗櫻都の眼の前にさしのべられている。
「苦しいよね? 大丈夫、私が導くよ」しゃがみこんだ少女は春の若葉のような鮮やかな緑の髪をしていた。瞳も同じ色だ。「だって私、導手(みちびきて)だから」
私の手を取って、と
風の精 晴月は紗櫻都に呼びかけた。こんな大事故のさなかとは思えないほどあどけない笑顔だ。
「それだけで楽になれるよ」
紗櫻都は震える手をのばそうとしたが、
「やめよ!」
刺すような声がして動きを止めた。
「この者はまだ助かる。やめておくのじゃ」緑の髪の少女とは別の声だ。
「でも苦しそうだよ、痛そうだよ」
「苦しそうでも痛そうでもじゃ。わらわのようになってしまうよりよほどいい」
「だって……」
「
だってもこってもないわ! まだ助かる可能性がある者を導くな!」
ぴしゃりと言われ、不服そうに頬を膨らませて晴月は立ち上がった。
腕組みして立っているのは小柄な女性だ。
まっすぐに切りそろえた黒髪、いわゆる姫カットという髪型だ。着物姿だ。
彼女には
八幡 かなえという本名があるが、ほとんどの人は彼女を
九鬼姫(くきひめ)と呼ぶ。
マスターの桂木京介です。読んで下さりありがとうございました!
月原 想花さん、ガイドへのご登場ありがとうございました。ご参加の際は、シナリオガイドにこだわらず自由にアクションをおかけください。
お待ち申し上げております。
概要
季節の変わり目が訪れました。冬はもうじき終わり、そして春が到来します。
概して春は出会いと別れの季節と申します。
近づく別れに備えるお話、あるいは思いがけない出会い、再会、そんなテーマのシナリオです。といっても内容は自由ですので、テーマを念頭におきつつも自由にアクションを作成してくださいませ。
もちろんシナリオガイドにからむ必要はまったくありません。
アクションのヒント
今回もヒントを以下に記してみます。あくまで一例ですので参考程度にお読みください。
・春からの進路が別々となる僕たち、遠距離恋愛は嫌だと彼女が言うので別れ話になったよ。うう。
・悪癖に別れを告げるべくお酒を断ちました。
・デートしているはずなのに会話は空回り。このまま私たち、さよならになってしまうの?
・ひさびさに寝子島に里帰りして、懐かしい顔と再会しました。えっ!? 結婚するの!?
NPCについて
ご注意ください。本作では以下のNPCしか登場できません。
・ガイドに登場している五十嵐 尚輝、風の精 晴月、九鬼姫(こと八幡 かなえ)
・鈴木 冱子(偶然事故現場の近くにいます)
・『プロムナード』『ザ・グレート・タージ・マハル』『クラン=G』『ハローニャック』の関係者(いずれも店名です。知らない方は特に気にしなくても問題ありません)
・Xキャラには制限がありません。誰でも登場可能です!
・桂木京介が書いてきた未登録NPC(ガイドでは鈴木 紗櫻都)にも制限はありません。全員登場可能です。
いつもとルールが違いますが参加PC数もしぼっていますのでご了承いただけると幸いです。
また、相手あってのことなので、必ずご希望通りの展開になるとはかぎりません。ご了承下さい。
それでは次はリアクションで会いましょう。あなたのご参加を超がつくほどお待ちしています!
桂木京介でした!