古書の匂いが好きだ。インクや紙の繊維質、編み糸あるいは革表紙、これらに内在する香りの要素が、光と熱とに分解されて、空気のなかへと溶けだしたものが。
バニラに似た香りだという人がいる。刈ったばかりの青い草を思い出すという人も。
いずれにせよ新品の本にはない年月の重みがかもす、静謐なる芳(かんば)しさではないか。
倉前 七瀬は古書の香につつまれていた。
めくる古書は文庫本、徳冨蘆花『小説 不如帰』のうんと古い版である。薄皮のようなページはめくるたび、セロファンを思わせる音をたてた。
不幸な生い立ちを経た少女が海軍少尉の夫と出会い、相思相愛の幸せな日々をおくるも、夫の出征を機に強制的に離縁させられるという物語だ。いまの尺度では恋愛小説に該当しないかもしれないが、出版当時は悲恋のストーリィとして一大センセーションを巻き起こしたという。
前半はいささか冗長で、文語調の語り口にも硬いものを感じるのは事実だった。しかしヒロインに悲劇がおとずれるあたりから、物語の吸引力は強烈なものとなった。
いつしか七瀬は自分がいる時代を忘れ、百年以上前の不条理に立ち会っていた。
「――あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ! 死ぬなら二人で! ねエ、二人で!」
有名なフレーズだ。どこかで引用だけ読んだおぼえがある。なるほどこれが原典だったのか。
やがて読み終え、本をぱたんと閉じた。
面白かったのはまちがいない。
でも、と思う。
僕には、こげなんはできんかな。
誰かとの関係に、生きるとか死ぬとか、そげん極端な言葉を持ち出すなんて。
照れというかためらいがあった。
カップを引き寄せてすすったが、とうの昔に冷え切っていた。
「淹れ直そうか?」
呼びかけられて七瀬はようやく、カウンターのむこうに
柏村 文也がいることを思い出した。文也は微笑している。眠る赤ちゃんでも見守るような目で。
「……いえ、これはこれで」
七瀬は首を振った。冷たい珈琲の苦さが、頭を現在に引き戻してくれる。
ふうん、と、わかったようなわかっていないような声を洩らして文也は、
「あれから君の恋はどうなったの?」
唐突に話題を変えた。
「僕のは、恋というんですか?」
「……恋だと思うんだけどなあ」
AI搭載のコーヒーメーカーを操作し、自分用に珈琲を淹れながら文也はつぶやくのだ。七瀬に返答しているというよりは、AIにむかって独りごちているように聞こえた。
「死ぬなら二人で! ねエ、二人で!」
波打ちぎわで僕がウォルター先生に叫ぶとか? そしたらウォルター先生が、
「倉前が亡くなれば、僕も生きちゃおらん!」
と僕の手をとって……なんて、いくらなんでもありえないよ。
ドラマティックすぎるし、そもそも、現実味がなさすぎる。
でも恋って、つねにドラマティックなものなのだろうか。静かな恋だってあるのだろうか。
というより、僕のウォルター先生への気持ちって、恋なんやろうか。
堂々めぐりだ。結局問いは、もとの場所へと戻ってしまう。
「文也さんにわかるとですか……?」
聞き流されてもいいと思った。ところが文也はほとんど反射的に、
「いや、わからないよ」
あっけらかんとした表情で返したのである。鏡に向かって卓球のスマッシュを放ったかのよう。
「だって小生、恋したことないからね」
「なかと、ですか?」
「うん」
文也にとぼけている風はない。里に下りてきた無防備な子狐が、はじめて人間を見るようなまなざしだった。
僕は恋に疎いのかもしれない。
でも文也さんは……知らないんだ。恋を。
「おかわり、どうだい? 店のおごりだよ」
左手をのばし、ふと窓の外に目をむけて、
「降りはじめたね」
文也は言った。
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参ったな。
空にむけた手のひらに、冷たいしずくがぽたりと落ちた。
あいにくと傘を持ってこなかった。
背のボディバッグは小さすぎて雨よけにはなるまいし、手には中古レコード盤を入れた袋がある。運良く見つけた貴重な一枚だ。濡らすわけにはいかない。
どこかで雨宿りしようと
ウォルター・Bは首をめぐらせた。参道商店街、あまり足を踏み入れないあたりなので土地勘はない。古めかしい建物が多く、全国チェーンのダイナーなど望むべくもないから、入るなら純喫茶あたりだろうか。店が見えないわけではないものの、いささか敷居が高く感じてしまうのもまた事実だ。尻込みする。
なら書店でもいいんだけど――。
目の前の角を曲がればそこに古書喫茶『思ひ出』の看板があるのだが、この時点ではまだウォルターは気がついていない。
しかしまもなく、見つけるかもしれない。
愛の疑問は小雨と古書の香りに包まれ、解が出るのか転がるのみか。
さてどのようなゆくえとなるやら。
リクエストありがとうございました! 桂木京介です。
またもお待たせしてしまいました。ごめんなさい。
倉前 七瀬様、柏村 文也様へのプライベートシナリオをお届けします!
シナリオ概要
シナリオ『思ひ出語り、恋語り』の続編的なお話です。秋ふかまりゆく神無月の午後、古書喫茶『思ひ出』店内が舞台となります。
今回も主たる登場人物は七瀬様、文也様となりますが、本作では途中からウォルター・B先生が加わる流れも用意したいと思います。(※もちろん未登場でもかまいません)
会話中心となることでしょうが、話題は恋愛に限りません。ざっくばらんな四方山話を楽しんでいただければ幸いです。
今回は『思ひ出』を出る展開も考えています。ウォルター先生は傘をもっていないので、傘をさして駅まで送ってあげるのもいいかもしれませんね。(雨といっても小雨ですが、なかなかやまないものを想定しています)
前回同様、ふれてもらいたい過去のシナリオやお互いのお互いに関する感情、共通している情報、逆に、共通していない(このシナリオではじめて相手に明かす)情報などありましたら、話の種としてご提供をお願いします。
『思ひ出語り、恋語り』は、僕自身とても気に入っているシナリオですので、またこの空間を描くことができて嬉しく思っています。どのような展開になるのか楽しみです!!
それでは、次はリアクションで会いましょう。桂木京介でした。