親には、学校に行くと言って家を出た。
実際には行くつもりなんてなかった。
雪の積もる道を歩いて駅に着いて、特に目的もないまま寝子島を出る電車に乗った。
とにかく離れたかった。
どこから? わからない。
電車は八割程度の混みかたで、こんな時間帯に電車に乗ったことのない彼女はとりあえずドアのそばに立った。電車が動き出した。
異変を感じたのは数分後のことだ。
背後に誰かの気配を感じた。甘ったるいドブのような臭気、息が右耳に吹きかけられている。自分にぴったりと張り付いた誰かのものだ。
ちらりと見ればサラリーマン風の男性だった。眼鏡をかけており四十歳くらいだろうか。小太りで七三分け、分け目がぐっと後退している。
彼女は硬直した。
――胸をまさぐられている。
そればかりではない。制服のスカートの下からパンツに手を入れられている。
彼女が感じたのは痛みだった。気持ちの悪さも、恥ずかしさも。
だけどそれ以上に恐怖がまさった。体がぴくりとも動かない。
嫌なら助けを求め声を出せばいい。「痴漢です!」と叫べばいい。でなきゃせめて悲鳴を上げるとか――そんなことを他人(ひと)は言う。抵抗しないのは受け入れているのと同じだ、そんな無責任な意見もある。
けれど突然のこんな理不尽、こんな暴力にとっさに反応ができようか。ましてや相手は、自分よりずっと力の強い歳上の男性なのだ。
身をよじってのがれようととした、けれども男はぴったり密着したままだった。さらに男が言った言葉がこれだ。
「なあ、感じてるんだろ?」
永遠にも思える時間が過ぎて、目の前のドアが開くや彼女はホームに飛び出した。手首に男の手が伸びた。つかまれる寸前に逃れた。それでも駆け出したり大声を出したりはできなかった。いまの彼女にできる精一杯の早足で改札への階段を降りた。
どうやってたどりついたのかわからない。
気がつけば雪の下、彼女は傘もささず河川敷を歩いていた。
傘はどこにやってしまったのか。雪は今朝もずいぶん降っている。自分の身に起こったことが理解できない。
そういえば聞いたことがある。
電車の痴漢は物事を自分の都合のいいように解釈する。怖くて抵抗できなかった女性を『痴漢OKの女』とみなし、降車後も追いかけてきて関係を迫るというのだ。
吐き気がした。
怒りもこみ上げた。
だけど彼女がもっとも怒っている対象は、何もできなかった自分自身だ。
高架橋の真下でしゃがみこんだ。もう一歩も歩けそうもない。
指先がなにかに触れた。
拳銃?
積んだ石で隠そうとしていたらしいが、握りの部分がのぞいていた。取り出してみるとたしかに拳銃だった。たぶんモデルガンなのだと思う。けれどその楽観的観測を嗤うように、銃はひやりと冷たくずしりと重い。
背後に誰かの気配を感じた。
脇坂 香住(わきさか・かすみ)は無我夢中で銃を構えた。
「私に近づくなッ!!」
引き金を引いた。
■ ■ ■
吸い殻を投げ捨てようとしてやめて、指先でくしゃくしゃにしてティッシュで包んだ。
気がくさくさする。
「……ああ、嫌だ嫌だ」
雪の日は嫌いだ。でも部屋で雪景色を眺めているのはもっと嫌いだ。あの日を思い出すから。
だったら外に出ているほうがましというものだ。
傘を差したまま雪景色を眺め、もう一本煙草を取り出すとくわえて火をつける。タールたっぷりメンソール、起きてから何本目かなんて忘れた。そもそも数えてないし。
ゴミのような雪があとからあとから降ってくる。風景は白いばかりで気が滅入る。汚れや罪を隠すのが雪、そう表現する話があったかと思うが、逆に言えばそれだけ、汚れだの罪だのに世はまみれているこということだろう。
彼女は
まみ子と名乗っているが、本当の名前は『姫木じゅん』という。プリンセスにツリー、じゅんはひらがな。
接待を伴う飲食業、その従業員というのが職業だが、一般に通じる表現でいうならキャバ嬢だ。この仕事だと知ったとたん、あからさまに見下した態度を取る人間がいる。穢(きたな)いものを見た、という目をする者もいる。そういえば役所の人間に、面と向かって賤業呼ばわりされたこともあった。その一方で「月なんぼや?」と露骨に愛人契約をもちかけてきた男もあった。
いずれも慣れた。どんなときもまみ子はあいまいに笑って、理解できないふりをするだけだ。
でもいつだって笑っていられるわけじゃない。
特にこんな雪の日は。
猫又川の河川敷、ぶらぶらと高架橋のたもとに向けて歩いていたまみ子は、そこに中学生くらいの少女がしゃがみ込んでいることに気がついた。
ほうっておけばよかったのだ。だけどまみ子は声を掛けていた。なんとなく看過できないものを感じたから。
「どうしたの?」
銃声。
――ある日あたしが急死したときに備えて、
いつか自分が口にした言葉を、まみ子は思い出している。
誰かに覚えておいてもらいたかったからかもね――。
■ ■ ■
発信者:アーナンド・ハイイド
『プロムナード』従業員のみなさんへ。
今夜お店、臨時休業とします。
大変なことになりました。
まみ子ちゃんが・・・。
ニュース見ましたか?
あれ、まみ子ちゃんのことです。
ごめなさい。気がどうてんしてまともに書けません。
わたし、病院行きます。
くわしいことはまた連絡します。
■ ■ ■
店長のアーナンドから『くわしいこと』が知らされたのは、ずっと遅くなってからのことだった。
泰葉はそれほどまみ子と親しいわけではない。同僚だしキャリアの上では先輩にあたる相手だが、むしろなんとなく敬して遠ざけていた。
それなのに今、まみこの報を聞いてたまらなく悲しい。
それに、怖い。
不安と恐れでおしつぶされそうになる。
どんな理由でまみ子が銃で撃たれたのかは知らない。
悪質なストーカーか、過去のトラブルか、それとも不幸なとばっちりか――だけどいずれにせよ、自分の身に起こりえないこととは思えなかった。
誰か来て。
自宅マンションの窓から、雪に沈む街を眺めて思う。
誰か。
泰葉はスマートフォンを取り出す。『
優木 遥斗』の名前を表示させる。
「でも……」
ためらいがあった。
「……?」
一瞬コール音が鳴った気がして、遥斗は鞄を振り返った。
■ ■ ■
雪が降りつづけている。
マスターの桂木京介です。
よろしくお願い申し上げます。
優木 遥斗さん、ガイドへのご登場ありがとうございました。
ご参加いただける場合は、ガイド本文にかかわらず自由にアクションをかけてください。お待ち申し上げております。
シナリオ概要
日常シナリオです。
大雪が続いています。
白い雪に覆われる寝子島、そこですごすあなたの一場面を描かせてください。
拙作『雪に願いを。/This bird has flown』リアクションから続くシナリオガイドにしていますが、この内容に絡む必要はまったくありません。
NPCについて
以下のNPCは本作において特定の働きをするかもしれません。
●脇坂 香住(わきさか・かすみ)
無駄なことが大嫌い、と公言してはばかることのない中学二年生です。
平行世界を生み出し『やり直して修正する』という強力な能力をもっていますが、自分の運命は変えられないようです。
昨年末ごろから不登校になっています。
●まみ子こと姫木 じゅん
キャバクラ『プロムナード』で働く女性です。
シナリオガイドで描写されたように銃で撃たれました。生死は不明です。
※店長アーナンドのメッセージが誤字だらけなのは気が動転しているためです。
●今道 芽衣子
寝子島中学校の非常勤講師です。本作のシナリオガイドには登場していませんが、『雪に願いを。/This bird has flown』で交通事故に遭いました。幸い軽傷でしたが……。
ガイドに未登場のNPCも登場可能です。
NPCとアクションを絡めたい場合、そのNPCとはどういう関係なのか(初対面、親しい友達、ライバル同士、恋人、運命の相手など。参考シナリオがある場合はページ数も)を書いておいていただけると助かります。
また、必ずご希望通りの展開になるとは限りません。ご了承下さい。
それでは、次はリアクションで会いましょう!
桂木京介でした。