それは、葉桜が目立ち始めたある夜のこと。
ひとりの男が、
星ヶ丘ホースクラブの裏手を自宅へと急いでいた。
足早に夜道を急ぐ彼の耳に、ふと、遠くから馬の嘶きが聞こえてくる。
男は、気にしなかった。
ここは星ヶ丘ホースクラブの裏手。近くには競走馬のいる厩舎もある。
たまには馬の嘶きの一つや二つ、聞こえることもあるだろうと考えたのだ。
ところがしばらくゆくと、またしても馬の嘶きが聞こえる。
気のせいだろうか、先ほどよりも距離が近づいているように聞こえなくもない。
しかし、厩舎は遙か後方、こんな時間に馬を放している騎手もいないだろうし
近づいていると考えたのは気のせいか、と。
言い聞かせながらも、心持ち男の足は速くなった。
虫の報せ、というやつだろうか。
男の履いた革靴が早足にアスファルトを叩く。
その時だ。
その革靴の音に重なるように、革靴の足音がもう一組聞こえてきた。
こつ、こつ、こつ、こつ。
こつ、こつ、こつ、こつ、こつ。
すでに不安になり始めていた男は、
よかった、誰かいるのかと縋るような思いで後ろを振り返った。
街灯に照らされた、仕立ての良い紺のスーツと黒の革靴。
体格からして、おそらく男だろう、と思われる。
しかし、首から上、本来ならば顔があるはずの場所には
馬の首が乗っていたのだ。
男ははじめ、友人の誰かのたちの悪い冗談だと思った。
震える声を何とか宥め、おい、脅かすなよと声をかけると、
馬オトコはぎょろりと男の方を見て、大きな声でひひーんと嘶いた。
咄嗟に男は、先ほどから聞こえていた嘶きだと直感した。
アイツに関わってはいけないと、一目散にその場を逃げ出す。
ところが馬オトコは、軽快に革靴の音を響かせながら
男を追いかけてきたのだ。
馬の脚に人間の脚が叶うはずがない。
初めは開いていた距離はあっという間に縮められ
いつしか馬オトコの荒い呼吸がすぐ背後まで迫ってきていた。
ついに、もう駄目だ、と。男は頭を抱えてその場にうずくまった。
ところが、馬オトコに追いつかれ、踏みつぶされるか蹴られるか、
それとも食われるのかと震えあがっていた男を後目に
馬オトコは男になぞ目もくれず、ひひーん! と高らかに嘶き、
そのまま夜の闇へと消えていったのであった……。
「そんなわけで、ホースクラブの従業員が怖がっちまってね。
すまんが、ちょいと調査を頼まれてくれないか」
そう言って、装蹄師の親父さんがあなたの背をポンと叩いた。
確かに、従業員たちが浮足立っていては馬の環境にもよくないだろう。
幸い、襲われたりする心配もないようなので
なんとか馬オトコを説得、あるいは誘導して
ホースクラブから離れた山の中に返してあげてほしい。
馬オトコです。
ご覧いただきありがとうございます。
馬オトコです。
ギャグに振ろうと思ったんですが、
書いてみたら意外と怖かったですね。
というわけでこの謎の馬オトコを
九夜山に送り出してやってください。
ただし!ニンジンは不可です。