暗闇の中に、数百数千の蛇が蠢いていた。
しゅるしゅると這い回る腹がすりついているのは地面ではない。無数の『犠牲者』たちだ。
この酷く不気味な世界に、女が佇んでいる。女は一房の果実を手に、ひとりの少年を見下ろしていた。
少年は微笑んでいた。彼が迎えようとしているのは、とても幸せな、穏やかな、緩やかな死だった。
「そう、私の香りが気に入ったの——。私も貴方の香りが好き。絶望へ向かう苦悩は、とても甘美だから」
女は指についた果汁を舐めとり笑う。そしてそれきり犠牲者たちに興味をなくして、光の方へ消えていった。
* * * * *
夕焼けに照らされた手は赤いのに、摩っても熱が戻らない。
旧市街に二人の兄と暮らす男子中学生、
イリヤ・ジュラヴリョフはついさっき返されたばかりの答えを反芻し続けている。
——お前がずっと一緒に居たいのは、兄さんたちなんだろ。
助けて貰いたくて伸ばした手は、そう言われて取って貰えなかった。拒絶されたと感じたイリヤの目の前は真っ暗になり、相手の同情した顔も続けてかけられた言葉も、何も見えなくなっていた。
「そうだね、僕は兄さんたちの傍にずっと、ずっと一緒に……」
親戚の家に引き取られてから何年も理不尽に離れ離れだった、たった二人の家族とこの島でやっと会えたのだ。イリヤの守りたい普通の日々は、常に彼らと共にあった。
その筈だったのに、いつから二人は自分の目を見てくれなくなったんだろう——。
「……帰りたくないな……」
そう思ったバチが当たったのかもしれない。イリヤが我に返った時、そこは見たこともない場所だった。
「海?」振り返ると樹々が生い茂る森が見える。寝子島の居住区の反対側?
戸惑う彼の視界に入り江の洞窟が、その奥で揺らめく影が見えた。
暗闇に浮き立つようなその女は、真紅のドレスの上に白衣をゆるく羽織っている。近寄って行ったイリヤの心臓がどきっと音をたてた。彼女が目元を包帯のような布で縛っていたからだ。
「……あの……」
「
貴方の声を聴かせて——」
女の声は嫌なものを感じさせたのに、唇は魔法にかかったように開いてしまう。
「僕は……、分からなくて」
「何が?」
ここは何処ですか。と言おうとした筈なのに、イリヤの本心がそれをさせない。
「兄さんたちが……変なんです。僕から遠ざかって……。叔母様に聞いても、何も答えてくれないんです。
……もしかして……」
言いながら青ざめていく少年を見つめていた女は、笑いながら残酷な言葉を投げた。
「貴方が要らなくなったのかも! 貴方を育てて捨てたあの親戚夫婦みたいにね」
「『可愛い子供じゃなくなってしまった』って? 『せめて女の子なら良かった』って?
——兄さんたちはそんな事言わない! 絶対に言わない! あんな人たちと一緒にするな!」
「それならどうしてあなたを拒絶するようになったの? 絶対なんて言えるのかなぁ?」
「それは……、違う、嫌だ、だって……ねえ、そうだとしたら僕が諦めてきた気持ちはどうなるの? 兄さんたちに捨てられたら僕には何もない……生きていけない!!」
否定したい気持ちが女の追い打ちに折られかけ、イリヤは震える唇を噛んで負けないように前を睨みつけた。
すると女の指にいつの間にかフラスコが挟まれていたと気づく。中身は液体のようであり、気体のようでもある。不審がって目を凝らしていると、女はそれを待っていたように説明を始めた。
「これは『
切望を叶える香り』。貴方が真に望む世界を、貴方に与えてくれる」
「そんなの……馬鹿げてます、都合が良すぎる……」
「少し香りを吸うだけでいい。それだけで貴方の理想が広がるの。
私は
調香師。私の香りを信じなさい」
調香師の指が、柔らかく手招きしている。
「おいでイリヤ。そう……もっと近くへ……」
足は調香師の声に導かれ、イリヤは虚ろな夢遊病者のように進んで行く。砂糖菓子よりも甘い香りが鼻の奥に抜けると、一瞬のうちに気を失ってしまった。
「————だよ。朝だよ」
「もういい加減起きないと遅刻するよ」
肩を揺さぶられる煩わしい感覚で目覚め、イリヤは重い瞼を開いた。
二人の兄がこちらを見下ろして「やっと起きた」と笑っている。いつの間に家に帰って、いつの間に朝になっていたんだろう。額を押さえていると、ベッドの上にハンガーに掛けられたままの服が投げ出された。
「ほら着替えて!」
兄たちはそそくさと部屋を出てしまった。
(いつもなら寝ぼけていると、着替えを手伝ってくれるのに)
寂しさを覚えながら服を手に取り、妙なことに気づいた。
「これ——!」いつもの学生服ではなく、女子生徒が着ているセーラー服だ。からかうにしても程がある。イリヤは跳ね起きて、兄たちへ抗議をしながら扉を開いた。
「ふざけないでよ僕の制服——……」
勢いが一気に引っ込んでしまった。
リビングのソファに座る父がこちらを見て、おはようと片手を上げ、ダイニングから母が顔を出したのだ。
「……お母さん……パーパ? ……なんで?」
二人は数年前に亡くなっているのに!
驚愕で動けないイリヤの方へきた母は、我が子の髪を撫でて微笑んだ。
「寝癖がついてるわ。ダメじゃない、『女の子なんだから』」
「ははは、流石に女の子の身支度は俺たちじゃ手伝えないよ」
「セクハラとか言われたくないもんな」
兄たちの笑い声でぞくりと冷たい感覚が背筋をかけて、洗面所に駆け込んだ。鏡にうつっているのは、灰色の目に、金にちかい栗色の髪の、どこからどうみても中学生の非の打ち所がないくらいに愛らしい少女だった。
「……何、これ……誰? こんなのおかしい、知らない! 全部おかしいよ……助けてにいさ……」
自分で言いかけた言葉にイリヤは打ちのめされる。本当の二人は、もう呼んでも助けにきてくれないんじゃないかと過ぎったのだ。
膝がガクガク震えて止まらず、洗面台に片手をつきながらその場に崩れようとしたのだが、誰かが優しく腕を掴んで背後から抱きとめてくれた。
「——調子悪いのか?」
知っている声に首を回すと、兄たちの冷やかす声を聞いてバツが悪そうに笑っていたのは、イリヤが拒絶されたと思っているその人だった。
あの時は握り返してくれなかった手で愛おしげに抱き寄せられて、否定の声を出す事も出来ない。
「遅いから迎えにきた。……どうした変な顔して、まさかたった一晩で恋人の顔忘れたのか?」
何かが壊れてしまう。泣き出しそうになった瞬間、頭の中に調香師の声が響いた。
『切望を叶える香り』。貴方が真に望む世界を、貴方に与えてくれる——。
「…………そ、か……」
イリヤは理解した。これは全て自分が望んでいたことなのだ。
普通の家庭の、誰にも捨てられない可愛い女の子。誰かを選んで誰かと離れなくて良い、ぬるま湯のように居心地の良い世界。
「——おはようイーリャチカ」
微笑む夢の世界の住人たちに目覚めの挨拶をかけられて、たった一度だけ自分が居るべき世界を迷ったイリヤは、正気を失ってしまった。
* * * * *
「イリヤ君! イリヤ君目を覚まして!!」
入り江の洞窟で、
伊橋 陽毬が蒼白な友人の手を掴んで必死に呼びかけ続けるのも虚しく、イリヤの身体から体温がみるみる失われていく。
「どうしようイリヤ君が……皆が死んじゃうっ!」
陽毬が悲鳴をあげた。今や洞窟の中のそこかしこで同じような光景が見られる悲惨な状況のなかで、
大道寺 紅緒はもれいびが
テオドロス・バルツァに「助け出してやった方がいいんじゃねえか」と導かれた訳を理解した。
「『夢の中に囚われ、目を覚まさない』……だったら夢の中に入れば——!」
締め切りギリギリだと言ったのに「てめえなら出来るかもしれねえ」と呼ばれた、自分の能力が必要な理由は——。
「私のろっこんで彼らの夢と繋がる! どれだけ連れて行けるかも分からない上、一か八かの片道切符よ!
それでも良いならついてきて頂戴!」
彼女に応えたもれいびたちが陽毬のろっこんの揺籃歌を聞くと、夢の中へおちた。
そこは同じように暗い洞窟の中だった。ただ元の世界とは違い、異様な寒さを感じる。
うねる蛇たち集られ昏倒している犠牲者たちの姿を見つけた紅緒が叫んだ。
「このままでは皆が蛇に窒息させられてしまう! 助け出しますわよ、とにかく洞窟の外へ!」
しかし——。
走り出したもれいびたちの前に、ふっと白い影が降り立った。
「おはよう!」
「イリヤ……?」
紅緒は一度口にしたものの、その名が正しかったのか確信が持てない。
それはイリヤのようであり、彼とは異なる少年だった。真白い髪に屍体のように冷たい色の肌。つま先からするりと蛇が這い上がろうと、気にも留めない。
もれいびたちは、紅緒が名を呼んだ少年の肉体に、何かが干渉しているのだと一目で認識した。
「ふふ、みんなが会いに来てくれて、僕はとってもうれしい!
でもね、その人たち、とても大事だから。ないと困るから、持っていかないでね」
舌ったらずに言いながら、少年はイリヤと同じ首を傾げる癖を見せて、にっこりと微笑む。
紅緒はテオの言葉を思い出していた。
「普段なら向こうに召喚してやるんだが、俺は『白いやつ』に邪魔されて出来ねえ」
「だがアレと繋がりのあるてめえなら——」
(まさか、テオの邪魔をしたのは……!)
そう考えたくないと思っても、状況が肯定する。あちらに感づかれる前になんとかして皆へ危険を伝えようと一歩後退った瞬間、少年の瞳孔が開いた。
「ねえ、紅緒さん……。あなた今、何をしようとしたの?」
急激に気分を害した少年は、絞めるように自らの首を撫でた。
「『彼女』が言ってたよ。
この幸せな世界は、僕だけのものだから、誰にも邪魔されないんだ。だからお願い…………」
空気がざわめき、少年に絡み付いていた蛇たちが、一斉にもれいびたちへ向いた。
「出てけ——!!」
白い腕が風をきった途端、蛇たちはもれいびたちに襲いかかった——。
ガイドをご覧頂き有難うございます、バトル難易度高めの時の東安曇です。
今回のシナリオは2パターンのアクションをかけていただくことが出来ます。
(1)犠牲者を助けるために夢の世界で戦う。
(2)PCが犠牲者になり夢を見続ける。
2つのアクションをかけることは出来ませんのでご注意ください。
またNPC『調香師』は今回のシナリオで、倒すことは出来ません。
目的
▼夢の世界で戦う
・テオに呼ばれたPCは、紅緒と陽毬のろっこん能力で夢の世界に飛び込みました。
敵NPCを退けて、蛇たちに囚われている犠牲者たちの全てを洞窟外の光の中へ助け出すことが目的です。
▼夢を見る
・突然現れた調香師に襲われたPCは犠牲者となり、PCが一番に望んでいる状況、世界を夢見ます。
巻き込まれた記憶の有無はご自由にどうぞ。思い切り楽しんでも良いですし、違和感を感じて反発したりするのもオーケーです。
リアクションに反映されるのは、ガイドの一部に登場するような夢の世界の描写が中心です。
現実世界では(蛇にキュッとやられて)死にかけです、ご了承ください。
NPC
▼敵NPC
『白い少年』
調香師の残滓とイリヤの意識が混ざり合った、イリヤであり、イリヤでない少年。
蛇を使役し、PCの行動を阻害します。
肉体はイリヤそのものなので、近接格闘、ろっこん能力で氷を飛ばしての攻撃も行います。(*発動条件:攻撃対象を手で示す)ろっこんは暴走状態に有り、攻撃力や氷の大きさなどが増しています。
会話は可能ですが、イリヤよりも思考が幼稚で残酷です。
『蛇』
白い少年が使役する蛇。
犠牲者たちにとりついて這い回り、彼らの生命力を奪っています。
牙があり、PCに噛み付いたり締め付けたりして攻撃を行います。噛みつかれると神経毒で麻痺して動きが徐々に鈍くなり、最終的には行動不能に陥るのでご注意ください。
ちなみにサイズは様々ですが、アナコンダ的な大蛇はいません。
『調香師』
調香師を名乗る女。
犠牲者を出して謎の目的を果たすと、どこかへ消えてしまいました。
▼味方NPC
『テオ』
事件を察知して、PCたちを洞窟に導きました。
『紅緒』
ろっこん能力でPCおよびNPCの夢を繋ぎます。頭はキレますが、戦闘能力は皆無です。
『陽毬』
ろっこん能力でPCおよびNPCを眠らせます。皆にろっこんをかけるため、夢の世界へはいきません。
▼その他NPC
『イリヤ』
調香師の犠牲になった少年。
過去と現在に受けた過度のストレスにから、他の犠牲者より『切望を叶える香り』に強い影響を受けており、現実と夢が曖昧に混ざり正気を失っています。
意識の半分は夢の中で、もう半分と肉体は白い少年と化しています。
『同行可能』
日本橋 泉、水海道 音春
*PL(PC)が役割を与える事でシナリオ(バトル)に登場します。