いつのことだか、あの瞬間。日常編｜リアクション

いつのことだか、あの瞬間。日常編

●画材が生み出す世界

　春の昼下がり。
　三宅葉月は画材を買いに街へ出た。星ヶ丘寮を出てからシーサイドタウンへ向かい、橋を渡って旧市街へ。道中を彩る緑が春という季節を感じさせる。穏やかな風を感じながらしばらく歩いていると、目的の画材屋に到着した。

　ドアを開けるとカランと鈴が鳴り、葉月を出迎える。落ち着いた雰囲気の店内には様々な画材が置かれている。葉月はそこで、色鉛筆や絵の具などを１つ１つ見て回る。
　画用紙、キャンパスノート、スケッチブック。他にも油絵に使う顔料や、デッサン人形。ペインティングナイフや筆など多様な品ぞろえだ。

　だが、これらの品々は、それ自体はただの画材でしかない。
　一般に芸術品とされるものを生み出すときに使われる道具でしかない。葉月はスケッチブックを１つ手に取った。パラパラと開くが、当然そこには何も描かれていない。

（しかし……画材に作り手の想像力が加わったときに、それは魔法のような効果を発揮する）
　
　筆先から紡がれるのは絵を通じて描かれる、さまざまな物語。それは作り手のなかに生まれ、何も描かれていない紙に反映される。だが筆を握った本人でさえ、それがどんな形を結ぶのかは実際に描いてみるまで分からない。
　頭に浮かんだものを描いていくうちに、そこに生まれた形に新たな色を加えていく。それを何度も繰り返すと、土に植えた種が芽吹いて花が開くように絵が成長する。

　絵を描く前から。さらにいえば画材を選んでいる段階から。葉月は未だ見ることのない世界について想像する。その瞬間が彼女にとって心地よい時間だったりする。

　もちろん絵を描いている時や、それを描き終えた瞬間だって至福の時間であり、最高の瞬間ではある。だがこれから生まれる物語に思いを馳せるのは、こうして画材を探している時間のなかにある。鉛筆の硬さはどれか。絵の具の色は何色か。描く紙はなにか。この選択もまた物語の形に影響する。それもまた面白い。

　そんなことを思いながら、葉月は一つ一つ画材を選ぶ。
　この絵具で、この色鉛筆で、この画用紙で自分の想像を形にしたときに訪れる至福の瞬間を予感しながら。

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