――おあおにくさま。そんな言葉が似合いそうな、灰色の空を見上げて、
御巫 時子は一つ息を吐いた。
寒々とした空気を白く濁しながら、吐息が雲へ溶けていく。
少し離れた道路で笑い声を上げながら玩具屋へ入っていく子供達。ふっくらとした茶色の冬毛を蓄えた猫。和洋菓子店から香るほのかに甘く香ばしい、チーズの香り。
いつもと変わらない『フツウ』の日常。
しばらく感じていない陽の暖かさを思い出し「今日は特に冷えるなぁ」なんて独り言を呟いてみる。
鼻孔をくすぐる香りが、懐かしい思い出を運んできたのか、ぼうっとする頭の片隅に懐かしい記憶が蘇る。小さくて、愛くるしい瞳で、柔らかな栗色の髪。
――と、その時。視線の端に何かが映ったような気がして、見上げていた顔を戻す。が、そこにはいつものキャットロードが広がっていた。
湿り気のあるコンクリートを踏みしめて、靴が鈍い音を立てる。足元に落とした視線をそのまま何の気無しに裏路地へ投げかけてみる。
「……?」
見間違いだろうか。ネズミにしては大きく、猫にしては小さな影が、道の端に置かれた室外機の裏へ入っていったように見えたのは。
――束ねられた栗色の毛束が揺れていたように見えたのは。
旧友、と呼んでも差し支えないと思っている知人の姿がそこにあったような気がして、御巫は路地裏へ入ろうと歩を進めた。
その時。
地面に出来ていた水溜りが仄かに光を孕んで――御巫の意識はそこで消失した。
◇
「……ッ! ……カ!」
身体が揺れる感覚と共に、意識が引き上げられていく。
やや重い瞼を開けると、薄暗い藍色の景色が広がった。湿度の高い空気が肌に纏わりつく。身体の感覚が戻ってくるのを頼りに、今の状態を探ってみると、どうやら仰向けになっているようだ。少し耳鳴りがするが――それよりも。
「大丈夫ですカ!?」
「……ふぇあ……!?」
先程から何度も掛けられている声の方へ向き直ると、――
寿井知(ずいち)の顔がそこにあった。くるりとした丸い瞳が涙で潤んでいる。栗色の髪は
以前会った時よりも少し伸びているような気がしたが――ただ、御巫の知っている寿井知の『それ』とはかなり大きさが違う。何というか、『自分とさして変わらない』のだ。普段はそう驚かない御巫もこれには流石に奇妙な声を上げてしまった。
「だ、大丈夫ですカ?」
「は、はい……たぶ、ん?」
相変わらずオロオロとした態度の寿井知に小首をかしげながら上体を起こし、手を広げたり握ったりを繰り返す。どうやら怪我の類は無いようだ。
「えっと、ここは……?」
改めて周囲を観察してみるが、見覚えのない景色に戸惑う。壁は人工物の様相だが、アーチを描いている天井がとてつもなく高い。隙間から漏れてくる光以外に光源はなく、気づけば幾許か奇妙な香りもする。
「話は後でするのデ、付いて来てくださイ……雨が降ると、危ないのデ……ど、どうゾ」
「あ、ありがとうございます」
寿井知が差し出した手を取り、立ち上がる。体全体を左右に傾けて御巫の様子を伺っていた寿井知は、目立った外傷が無さそうなことを確認すると、一つ小さく頷き「こっちでス」と言い、歩きだした。
◇
何処とも知れぬ道を歩きながら聞いた寿井知の話によれば、自分は突然
光る輪の中から落ちてきた、とのことだった。
歩いていた先に光る輪が出現して驚き、そしてそこから人が落ちてきたことに驚き、さらにそれが見知った人間だったことに驚き……さらにはその人間が自分と同じサイズだったことに何よりも驚いたらしい。
何よりも、落ちた先――つまり、今歩いている場所が用水路であることを言い出しにくそうにしている様子を見た時は、何だかおかしくなって思わず笑ってしまった。
「お久しぶりでス……その、えっと……その節は、お世話になりましタ」
「いえいえ、お元気そうで」
懐かしい声に、そして、以前も全く同じことを言っていたのを思い出し、御巫が微笑む。
「最近は寒さが身に染みテ……っと、ここからでス」
先行して、小さな木組みで出来た階段を登る寿井知の後に続く。使い込まれてはいるが、しっかりとした階段の先に、これまた木組みの扉があった。
寿井知が手慣れた様子でそれを開けると、そこには――
見慣れたはずのキャットロードが、見慣れないサイズで存在していた。
いくら見上げても先の見えない壁、壁、壁。その隙間から見える果ての解らない道路らしき場所を轟音と共に通り過ぎていくのは、自転車の車輪だろうか。
比較的低い(とはいえ自分の潜った扉の何倍も大きさの)壁が、側道の花壇だと気付くのに時間が掛かった。
人や車等が通る度に、冷たい風が重く身体に吹き付けられるのを感じ、たじろぐ。
「気をつけて下さイ……少し壁に寄って頂いた方が宜しいかト」
ふらつく身体を優しく支えられ、御巫が寿井知へ視線を向ける。と、その背後。
これ以上無いほどに眼を見開いている
山之 鳶色彦の姿があった。
◇
「寿井知殿からの知らせを受けて、急いで来てみれば、本当に……驚きですね」
「ありがとうございます、寿井知さん」
動転していただけに見えたが、しっかりと救援を呼んでくれていた事に感謝を述べたが、当の寿井知はしっくりきていないのか曖昧に数度頷いた。
「その、お久しぶりです。鳶色彦さん」改めて鳶色彦へ向き直り、頭を下げて礼をする。
「えぇ。で、その……御巫殿は、どうしてこんなことに?」
寿井知が簡潔に事のあらましを説明すると、鳶色彦は大きな目を何度も瞬かせ、御巫を見た。しばらくそうしていたかと思うと、急に腕を組んで瞼を伏せ、黙りこくってしまった。
――数瞬の後。
「……寝ちゃいましタ?」
「起きてますよ、考えていたんです」
鳶色彦は半ば呆れ気味にそう応えると、片目だけを開いて寿井知に向かって小さな溜息を吐いた。
「おそらく、ですが……御巫殿は
ネズナの穴に落ちてしまったのでは、と」
「ネズナノアナ……ですか?」聞き覚えのない単語に御巫の視線が上を向く。寿井知は覚えがあるのかないのか、口を開いたまま首を傾けている。
「はい。稀に……本当に極稀に出来る穴で、落ちると我々と同じ大きさになってしまう不思議な力があると聞いたことがあります。ネズナリの穴、と言う者もいますが……最近はもう殆ど聞かない、おとぎ話のようなものですね」
「元に戻る方法などは、あるんでしょうか」
御巫が、自分の手のひらを空にかざす。今となっては以前よりも随分と高く感じる空は、先程より晴れ間を覗かせていた。
「記憶が正しければ、ですが……ネズナの穴が出来た時は、対になるナズネの穴がどこかに出来る、と聞いたことがあります」
「ネズナ、ナズネ、ネズナ、ナズネ?」寿井知が指を立てたり折ったりしながら反芻する。「反対ですネ」
「はい。ナズネの穴は
ネズナの穴で小さくなってしまった者を大きくする、らしいです。私もこの目で見たことはないので、本当かどうか、定かではないですが……すみません、しっかりとは知らないんです」
「じゃあ、探しに行きましょウ!」
申し訳無さそうな顔をしている鳶色彦の横で目を輝かせながら、寿井知が歩き出す。
が、はたと足を止め「……どこに行けばいいんでしょうカ?」と振り向く。
「記憶が確かなら、
ナズネの穴が出来た場所から太陽の落ちる方角、に出てくるはずです。この辺りからなら……遠くても
寝子島高校辺りでしょう」
そう言いながら、鳶色彦が寿井知の後を追う。
「……急ぎましょう。早くしないと、戻れなくなってしまう」
御巫の耳に、小さく、しかし確かに、鳶色彦の声が聞こえた。
お久しぶりです。ご指名、ありがとうございます。
生きていました。ありがとうございます(?)
出来る限りお楽しみいただけるよう頑張りますので、何卒。